
冒険者として…
2017年8月28日
2006年3月、交通事故により首を骨折。
首の脊髄を、4番目から6番目まで損傷し、首から下が全く動かなくなった…。
あの日から10年を超え、ずっと疑問に思っていたことの答えかもしれない…
そう思えるものが見えてきた。
そこには、
なぜそう思うのか?
なぜそう言うのか?
なぜそうせざるを得ないのか?
なぜ?
…を繰り返し、相手の気持ちを理解しようと深く考え続けることで見えてきたことがある。
それはこれまでの経験があってこそ考えられた答えの1つであり、これから経験する様々なことにより将来また違う方向を向くかもしれない。
でも今は、できれば全ての人が、少なくとも誰かが、少しでも幸せになれる可能性をここで伝えていきたい。
世の中、なぜ?と思うことがたくさんある。
脊髄損傷者の体を治すことについてもそうだ。
治らないと言う意見と、治せると言う意見がぶつかっている。
例えばたった1人の人でいい。
完全麻痺で治らないと宣告された状態よりも良くなれば、それは治ったと言えるのかもしれない。
そして可能性が0%ではなくなったことで、脊髄損傷は治せると言っていいのかもしれない。
しかしどうだろう?
宣告を受け入れ流されるままに生きるしか選択肢がなければ…。
宣告通りの状態で生きる人がたった1人でもいれば、それもまた正しいのかもしれない。
この議論は一体どこを境目にして、それぞれの正義を訴えているのだろうか?
どちらも正しいと私は思う。
病院での医師の宣告は最悪の通知…。
一生歩けない、
一生寝たきり、
動くことのない体、
体温調整不可能、
尿路感染症、
膀胱に管をつけて尿を垂れ流し、
ベッドで肛門に指を突っ込まれて排便、
血圧が下がって気を失う、
3倍近くに跳ね上がる血圧、
失われたあらゆる感覚、
それなのに全身を襲う痛み、
一生全介護。
告げられた内容…
それは何もしなければそうなってしまう。
もしくはそれを受け入れればそうなってしまう。
ということ…。
だから正しいと思う。
医師は間違ったことを言っていないと思う。
それは医学的に考えても、きっと正しいことでもあるだろうから。
だとしても治らないことをどこまで保証できるのだろうか?
そんな疑問が湧き上がる。
限られた入院期間、
限られたリハビリ時間、
様々な制約がある中で、
それを踏まえて考えれば、
回復の可能性を見出せたとしてもその患者に不可能を伝えるしかないのかもしれない。
よほどの可能性がなければ。
信頼したい情報は、盲目にさせるから。
もちろんNo!とはっきり言わない医師もたくさんいるだろう。
私は急性期の担当医から自分だけは宣告を受けず、写真に写る脊髄の生き残った細い筋を指差し、
ここをうまく使って頑張れ!
と励ましてもらった。
もちろん宣告を受けた家族は傍で泣いていたが。
しかし別の角度から見てみると、
医師はそう言うけれど、なにくそ見てろよ!
と思う患者も多いだろう。
出会った人のほぼ全員がそうだ。
みんなが何かを求めて努力している。
それは生き方であったり、
再び学ぶことであったり、
再び働くことであったり、
身体の機能を回復させることであったり、
何事にも負けない精神を持つことであったり。
すばらしい。
人間として生きることを努力している。
宣告を受けて全てをあきらめ流されて、生きる屍にはなっていない。
誰もが一度は考えたことがあるのではないだろうか…
ああ…お医者さんが言うからそうなんだ…。
納得できないから、言われたことには反対だ!
そうじゃない…
自分が本当にどうしたいのか?
どんな生き方をしたいのか?
心の奥底で真に求めているものは何か?
周りに流されない本当の自分の気持ちは?
脊髄損傷者ではなくても考える人はいるだろうが、自分たちの方が強くそれを考え追い求める瞬間が、多く訪れるのではないだろうか?
その時に、目には見えない境界線がある。
叶えられる人と、
叶えられる可能性の高い人と、
極限まで可能性の低い人だ。
脊髄損傷だけなら脳に損傷は無い。
中途障害だからそれまでの人生や経験を忘れたわけじゃない。
だけど体が動かない。
どう足掻こうと動かないものは動かない。
そっと近寄り、泣いている娘の涙を拭って抱きしめてやることすらできない。
あの瞬間、私に与えられたポジションは、極限まで可能性の低いグループだった。
もう涙も出なくなった。
どんな条件を提示したところで動かない自分の体があまりにも惨めで、そして自分に対する対応が死ぬまで続くと思うと、全ての人を恨んだ。
やり場のない気持ちの矛先を探した。
病室で救急車の音を聞きながら、それでも自分が1番最悪の状態だと呪った。
どうせそれなりに治るんだろ。
だったらいいじゃないか。
苦しむのは今だけだ。
その苦しみも忘れていくさ。
俺はそうじゃない!
病室の天井の虫食い模様しか見ることができないんだ。
どんなに辛く悲しくても、もう涙も出ない。
これまで生きてきて自分自身を褒めたことなどない。
しょうもないカスみたいな奴だと思い、とんでもなく自己肯定感が低い人間だ。
怪我をする前の自分を知っている人は、そう思っていたことに驚くかもしれない。
客観的に見てそこそこよくやっていたやつだと思うが、それでも自分が大嫌いで、好きになるためにはもっと努力してもっと誰かに認められないと…といつも思っていたから、あんな生き方しかできなかった。
それもできなくなった。
もはや自分の価値はゼロ。
誰かの世話になる分マイナスだ。
退院したら朝から晩まで夜中でも、24時間つきっきりの介護で妻が疲弊する のは容易に想像できた。
それを見ながら、毎日悔やみ謝り続けて生きていかなくてはならないのか。
それがこれから何十年も続くのか。
それが嫌でも、自分に残されている選択肢は舌を噛み切ることしかない。
しかしそれもできない自分は、何を言おうと中途半端な弱い人間であることに落胆する。
何のために存在するのか?
そんな自分にかける言葉がない中で、みんなぎこちない笑顔で何かを言ってくる。
自分自身を諦めるのか諦めないのかすら考えることができないぼーっとした頭でも、言われて嬉しい言葉があった。
今も忘れない。
担当医の、
「ここをうまく使って頑張れ!」
友人たちの、
「生きててくれてよかった」
憧れる人の、
「お前でよかった(お前だから復活できる可能性がある)」
妻の、
「またいろんなことができるようになるよ」
心にへばりついていた、
自死
という言葉が完全に消え去った。
少なくとも、この人たちのために生きる価値が俺にはあると知った。
あの日から2週間ほど経った頃からか、ピクリとも動かない脚で歩き始めた。
頭の中でイメージして、そう動くように命令を流す。
1日1,000歩歩くイメージトレーニング。
首から下が揺れることすらない体でスタートした最初のトレーニングだった。
みんなの期待に応える。
少なくともそうしなければ、自分が存在していい理由が見当たらなかった。
10年ほど経った頃からか?
自分が生きていく方向性がなんとなくはっきりしてきた。
それはトレーニングを続けることの価値の深さを教えてくれた人と誓ったこと。
誰かの為に生きる。
ろくに何もできない体だから、そんな事は簡単じゃないと思い続けていたが、自分だからできる事もある。
やっとそれが何かに気付いた。
iPS細胞、
歩行支援ロボット、
民間のリハビリ機関、
常に時代は幸せを求めて一歩先を目指している。
だけどモヤモヤしていたものがスッキリしたときに確信した。
極限まで可能性の低いグループ
それは、そういったことから最も遠い存在であることを。
そして自分の生きる場所は、改めてそこにあることを。
時代は進化し、極限まで可能性の低いグループは、やがてなくなるのかもしれない。
しかしそれは明日ではない。
しかしこの苦しみを明日も繰り返すことを望んでいる脊髄損傷者はいない。
ならば束縛の鎖を断ち切り、自らの経験を活かすことで誓いを果たそう。
首から下が麻痺で、
一生寝たきりで24時間全介護、良くて車椅子に乗れる程度
そう宣告された私が、どうやって
スマートフォンやパソコンを操作して通信制の大学で学び、
ゆっくりでも車椅子を自走できるようになり、
車の助手席にちょこんと座って出かけ、
飛行機を使って旅行に行けるようにまで回復させ、
そのために、
誰でも手に入れられるような道具を使い、
リフトを利用した立位リハビリ、
その多くが介助者1人でできる全身の機能回復トレーニング、
そして、
10年を過ぎても指先まで十分な柔軟性を保つことができている方法、
これら自分で経験してきた真実を伝えていこう。
そしてまだまだ続け回復するために、新たに考え出す方法を伝えていこう。
それがたった1人でもいい。
誰かの幸せにつながると信じて。
これが自分の生きる道。
極限まで可能性の低いグループの冒険者として、道を切り開いていこう。